事務所に戻って、記録を忘れたことに気づき、管理会社の人に連絡をすると、「合い鍵を作りましたので、これを渡しますから、一人で取りに行って貰えますか。私はこれから、別の仕事があるので、おつきあいできません。申し訳ない。」と言われた。明渡の準備を急いで欲しいと言われていたので、夜、取りに行くことにした。夕方、来客があったため、事務所を出るのが、8時過ぎになり、コンビニで懐中電灯を買って、家に向かった。
 駅に着くと、タクシーが1台だけ止まっていた。場所を告げると、運転手から、「お客さん、何しに行くのですか。」と聞かれた。怪しまれて警察でも呼ばれたら、面倒なので、正直に仕事の話をした。すると、「あそこは、幽霊屋敷と言われているんですよ。」と言い出した。「冗談は止めてください。」と言うと、真顔で、「私たちは、夜あそこは通らないようにしているんですよ。」と言って、口を噤んだ。その沈黙が、さらに、己弁護士を不安にさせた。家に着くと、「5分で戻りますから、待っていてください。」と言うと、運転手は、無言で頷いた。
 家の中に入ると、早速、記録を探し始めた。己弁護士は、自分の記憶では、リビングの机の上で、記録を読んだような気がしていたので、リビング目指して、中を進んでいった。リビングに着くと、机の上には、記録を置いたように、四角い跡があった。ところが、記録はなかった。どこに置いただろうと思い返してみたが、思い浮かばず、やむを得ず、一部屋一部屋探すことにした。暗い部屋を懐中電灯で照らしながら回っているうちに、誰かがそばにいるような気がしてきた。全部の部屋を回ってみたが、どこにもなかった。もう一度全部の部屋を回ってみたが、どこにもなかった。しかも、今度は、自分の目の前を何かが通ったような気がした。記録をなくしてしまったという失敗に、責めさいなまされて、何度も何度も、恐怖と戦いながら、家の中を歩き回った。ふと、気がつくと、2時間も探し回っていた。窓から外を見るとタクシーはいなくなっていた。突然、一人になった孤独感から、怖い、という気持ちが増幅した。闇に押しつぶされそうな重圧感が襲ってきた。それでも、記録を探そうとする義務感から、重い足を上げて、部屋を回り出した。何度目かの時に、ふと洋服ダンスの上を見上げると、記録が置いてあった。安堵のため息をついて、手を伸ばしたところ、突然、背後でドアがバタンと閉まった。びっくりして後ろを向こうとしたところ、懐中電灯の電池が切れた。
 翌日、黒いシミのベッドで寝ている己弁護士が見つかった。己弁護士は、何があったかは言わなかったが、明渡の仕事は二度としなかった。(完)