壊れてしまった弁護士たち

若手弁護士に実際に起きた出来事を、個人を特定できないように相応のフィクションを交えながら紹介していきます。

カテゴリ: #10 優しい兄弁

 癸弁護士は、ボス弁一人兄弁一人の事務所に入所した。最初は、どの事件も、兄弁が面倒を見てくれた。準備書面を書き上げると、一字一句訂正をしてくれて、しかも、何故そのように書くかを、丁寧に教えてくれた。契約書の起案も同様であり、どうしてそのような条項を入れるかを、理論立てて、説明をしてくれた。兄弁の口癖は、「基本からよく考えるのが良いよ。」であった。事件によっては、契約とは何か、とか、意思表示とは何か、という大学の講義で教わるようなことから、説明をしてくれた。一つの起案に対して、1時間以上説明してくれることもあり、癸弁護士は、大変勉強になると思っていた。兄弁は、終始優しく教えてくれた。
 そのまま、1年が過ぎ、兄弁が独立することとなった。兄弁がいなくなったために、ボス弁から直接仕事を任されることとなった。今までは、分からなければ、兄弁に聞けば良かったのだが、兄弁がいないので、ボス弁に直接聞くことになった。ある建物明渡訴訟で、分からないことがあったので、癸弁護士は、ボス弁に質問したところ、「その事件は前にやったのと同じだよ。」と言われた。記録を探してみると、確かに同じような事件をやっていることが分かった。癸弁護士は、毎度毎度教わったことは覚えているつもりであったが、法律論から文章の書き方まで多岐にわたっていたために、所々、抜けていることに気がついた。癸弁護士が、別な事件で質問をすると、また、同じように、ボス弁から、「その事件は前にやったのと同じだよ。」と言われてしまった。(続)
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 癸弁護士は、兄弁があまりに懇切丁寧に教えてくれたために、そのときは分かったつもりでいたが、実は何も分かっていなかったのではないかと、危惧しだした。それ以後は、ボス弁から仕事を任されると、まず、前にやった事件を確認することにした。すると、意外と、似たような事件があることに驚いたこともあるが、もう一つ困ったことに、何故、そのような主張をしたのかが分からなかった。癸弁護士は、確か、基本から考えるのだな、と思ったが、兄弁がすべて説明してしまっていたので、癸弁護士自身は、そのとき、何も考えていないことが分かってしまった。ボス弁からは、「前にやった事件だから、そんなに難しくないだろう。」と言われるが、癸弁護士は、どのような主張が正しいか、どう書けば良いかが、分からず、筆が進まなくなってしまった。一度、兄弁に連絡したが、「あの時教えたとおりだよ。基本から考えてごらん。」と言われたので、それ以上は聞けなくなってしまった。
 仕方なく、癸弁護士は、自分で考えた内容を書面にしたところ、ボス弁は、「うーん。」と言ったきり黙ってしまった。やや暫くして、「この書面はどう直せば良いかわからないな。彼はこの書面をどう直していたのだろう。」とつぶやいた。癸弁護士は、正直に、「殆ど、全部直されていました。」と言うと、「そうだろうな。」とボス弁は納得したようだった。「君は1年間、何も教わらなかったみたいだな。」と駄目押しされてしまった。
 さらに、「君はいてもいなくても同じだな。」と言われ、癸弁護士は、事務所を出ることにした。癸弁護士は、失われた1年を取り戻すために、未だ暗中模索中である。(完)
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